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人 生 の 棚 卸 し | ||
1948年 S23 | 誕生 | 父・母(共に小学校の教諭)の元に4人兄弟の末っ子として広島で誕生。 男ばかりの3人兄弟と言われてきたが、長女--長男--次男--3男(自分)の4人兄弟で姉ちゃんがいたそうだ。戦時中の食糧難でミルク代わりに米のとぎ汁を与えていたが、砂糖がなく飲まなくて栄養失調で0歳にて他界したそうだ。 |
1961年 S35 | 中学時代 | 父親が並三ラジオを家で作っており、興味を持ちワルさをしていた。 |
1964年 S39 | 高校時代 |
ラジオ・テレビに興味を持ち、当時は真空管でラジオ/ステレオアンプ等を造っていました。テレビはポンコツ屋さんへ行くと¥200~¥500で廃品となったテレビを売ってくれて、これで勉強したものです。 ・NHK教育TVで’テレビ受信機の修理’番組をやっており毎回観たり、放送局でも講習会 等もやっておりテレビ修理技術試験に合格した。 ・毎日のように部品を集めたりハンダゴテでテレビばかりイジっていた。 ・アマチュア無線にも合格したものの、両親から一旦、趣味は止めて受験終了後にと全 てSTOP。 |
1967年 S42年 | 大学時代 JR60受信機 ![]() TX88A送信機 ![]() TX15S送信機 ![]() |
・実家から毎日、母に弁当をつくってもらい電車(当時は汽車と言っていた)で通う真 面目な学生であった。 ・学校の近くに女子短大があり、同じ駅から乗り同じ駅で降りる可愛い女子大生がおり ました。乗り降りする時間帯も大体同じで(と言うか同じになるように合わせていた) 又同じ車両に乗っていた。 ・アマチュア無線を開局し趣味を再スタートさせた。6AR5の終段で、受信機は高1中2 らしきラジオではじめアンテナは庭の松の木から納屋の屋根に針金を張って、7MHz ではじめた。当時は初歩のラジオ・ラジオの製作といった雑誌があり、CQ誌もあった が殆ど上の2種類を購読していた。 ・メーカー製ではTRIOの9R59/JR60/TX88AがGETでき、移動では50MのTR1000 次にSSB機としてPSNのTX15Sシリーズでやっておりました。 ・友人達は彼女とデートしたりで、私もチョット女性に興味を持ち、同じ車両に乗って いた女子大生にアタックしてみた、どうも彼女も私のことを気にしていたみたいで同 じ町内の女性で同級生であった、高校まで同じ学校でなかったので初めての出会いで ある。 ・この日を契機に、休日には両親に隠してデートしていた。 ・3年生の頃に兄が車を新車に載りかえて、中古を私にくれたので卒業までは車通学と なった(車はマツダのファミリア) ・休日には車で彼女とデート、この頃はテレビいじりも無線も休み状態。デートでは 野呂山/岡山の鷲羽山/山口の常盤公園・錦帯橋 と周囲の殆どの観光地には行った。 ・ところが、デートのある日、バイクと接触事故を起こしてしまった。これで両方の両 親にバレてしまった逆に認めてももらえることとなった。 ・4年生になると卒論もあり、少し真面目になった、プロの2級無線技士の資格も取得し た。しかし、周りの学生は、こんなの大したことないと思われ全く無視、しかし当時 の合格率では結構、難しかった。 ・4年生の春には入社試験もはじまり、周りはドンドン決まっていく。私は、どうしても カラーTVの設計開発に従事したい気持ちがあり、何処かの電機メーカーに入ることを 希望した。 |
1971年 S46年 | 社会人 |
・希望通り電機メーカーに入ることが出来たが、無線の出来る生活環境ではなく、以降 はQRT状態となりました。 ・念願の電機メーカーに入社出来、この年は入社人数も多く、各工場が大変忙しく人手 不足の年でした。そこで、研修期間も長く、研修の名の元に各工場の応援員となりま した。たしか秋頃に正式配属が決まり、私は希望通りテレビ事業部のカラーテレビ設 計部門に配属された。 ・生活は独身寮に入り、二人一部屋で相手は放送機器の設計開発部門に配属された関西 人で真面目な奴でした。毎日、研修期間中は帰寮すると部屋に鍵をかけて、 入口ドア ーに’会議中’と貼って、1冊の’トランジスタ回路’の本を参考にして読み合わせをやって いった。 理解出来るまで会社の先輩や他部門へ聞きに行き、又、著者の元へと質問に 行ったこともあった。 彼とは1つの目標を設定して、3年以内にプロの1級無線技士の 資格を取得すること。 ・世間では、この頃ボウリングが流行り同僚達は、会社帰りにはボウリングをして喫茶 店経由で帰寮するようになり、色んな遊びや同僚達も増えて、毎日の勉強会も自然消 滅し目標設定していた資格も頓挫してしまった。ゴルフ好き仲間がおり、私もゴルフ クラブを購入し今度は帰寮後、ゴルフ練習場へ行くようになり、ドンドン遊びを覚え ていった。 |
1974年 S49年 | カラーTVの開発・設計 |
・私が入社した頃は、テレビはIC化率を上げる開発を各メーカーはやっており、率を 上げることにより税が下がるため、必死にやっておりました。半導体工場を持って いる会社は有利だが、そのため当時は厚膜ICの設備を導入し専用ICを生産していく 会社が増えた。 ・TVのブラウン管も90度偏向から110度偏向へと、更にフラットスクエアーへと 開発され、リモコン導入デジタル部門へと移行し、やがてマイコン(4bit)が使用 されるようになった。 |
1976年 S51年 | ビデオディスクプレーヤの研究 |
・フィリップス(レーザー方式)、RCA(静電容量方式)、テレフンケン(圧電針方式) の3方式を各社研究試作していた。当時、レーザー方式は家庭内へのレーザー持ち込 みは安全上?されていたが、結果としてフィリップス方式がメジャーとなりパイオニ アが市場デビューさせた。 |
1982年 S57年 |
CDプレーヤーの市場デビュー オーディオ機器関連の設計開発 |
・広島工場に帰り、私の実家又は女房の実家からでも通勤可能であったが、私の実家は 長男、女房の実家は2世帯にはリホームが必要なため社宅生活となった。 ・デジタルオーディオプレーヤー(CDプレーヤー)はビデオディスク以前からフィリッ プスが研究しており、オーディオ/ビデオプレーヤー機器では非接触方式がメジャー となった。ビデオディスクプレーヤーは国内では一部RCA方式の改良型(VHD方式) が生産販売されていた。 ・オーディオ機器(アンプ・チューナー・カセットデッキ・プレーヤー)の設計開発 |
1984年 S59年 | テープカラオケの設計開発 |
・女房の実家(リホーム)へ移転、女房は女3人の長女で私は実質養子みたいな者と なった。 ・世間ではカラオケブームとなり爆売された、Wデッキや8トラテープ付等、この頃は 各機器へマイコンが使用され、色んな機能を付加させたものだ。当時は試作した機器 を視聴室等へ持ち込み自分1人でカラオケを歌い酔ったものだ、週末には近くの飲み屋 に機器を持ち込みテスト。 |
1987年 S62年 | AV機器の開発 |
・オーディオ/ビデオの単品・複合型商品がデビューした。 ・AVアンプ、各種のサラウンド機能(ドルビー・シアター・ライブ・シタジアム等) 各社オリジナルIC(ゲートアレイ)をつくり競ったものだ、設計者にも実体験が必要 と言うことで映画館やライブ、野球観戦と仕事で楽しんだものだ。 ・各機器に搭載するマイコンの機能(ソフト)を審議、又商品構想の発想のために関連 部門と保養所に1泊で集まり審議したもの、この頃が思えば一番楽しい頃であった。 |
1992年 H4年 |
レーザーディスクプレーヤー の設計開発 |
・女房の実家の方でアマチュア無線の再開が可能な環境が整ったので、社会人になって 以来QRT状態だった無線を再開することにした。昔からの夢だったタワーを立ててロ ーテーターで回転させる。庭に三角タワーを立てるのに、庭の木々と同色であればOK と言う条件で、毎日2.5m単位を組み立て緑色に塗装した。 ・当時、ケンウッドのTS-950SDXを購入しHFビームアンテナで始めた、UHF も準備した。しかし、要領が判らず、メインチャンネルでCQを出すなんて知らず怒ら れたもんだ。パケット通信やらHFではパクター/アムターとかTTY通信があり色んな ものに挑戦した。 ・無線再開した中で周波数がズレています とか、音がおかしい とかクレームされて メーカー製の機器なのにと思い、色々つづけていると団塊世代の無線家達は異色な人 が多く音に煩いグループがあった。又、PSN方式でより良い(忠実な)電波を発射す るグループがあり、私も引き込まれ、これを契機に自作するようになった。 ・広島工場でレーザーディスクプレーヤを開発生産することになり、当時は半導体メー カーは新しいカテゴリーでのLSiがなく、Lsiも自社設計開発する時期であった。AV用 とカラオケ用を生産し、カラオケ用ではDSPを駆使してボイスチェンジャーやカラオ ケ採点機能を開発し差別化を図ってきた。カラオケプレーヤーでは東南アジアへの輸 出が多く、問題発生で何度か現地出張したが、現地でのカラオケ店でも何度も歌った ことがある。 |
1995年 H7年 | マルチメディアの設計開発 |
・12cm光ディスクを使用した各種プレーヤー、CDV・CD-Videoプレーヤー の開発、寿命としては短くDVDへ移行するまでの期間。 ・DVDの設計開発。 |
1996年 H8年 | デジタルカメラの設計開発 |
・数年前にオーディオではカセットテープ録音機からMD(デジタル)録音機がデビュー し、メモリーの媒体としてMDディスクを使用したMDカメラ(オーディオ録音再生も 可)を開発。 ・この生産が栃木工場に移管され、我々Grは栃木へ転勤(単身赴任)、インターネット ビューカムや何機種かのカメラを開発し終えて広島工場へ戻る。 |
1998年 H9年 | ブルーレイディスクの研究 |
・DVDから移行されるブルーレイディスクの研究開発を奈良(天理工場)と広島工場を 何度か転勤しながら開発。 |
2001年 H12年 |
ブルーレイディスクレコーダー の開発 |
・商品化をするために栃木工場へ単身赴任、第1世代をデビューさせ、その後、基幹部 品の開発と共に、第2・第3世代と開発。 |
2008年 H19年 | 定年退職 | ・第3世代投入後に退職。 |
退職後、以降は、本格的に無線機の自作に励み現在に至る。又、義理の父母が農業(田畑)をやっていたもので、2023年に義父が亡くなり、現在は女房と二人だけの生活で、毎日、私だけ畑・田んぼにと忙しくしている。 |